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2021/10/07

大友宗麟の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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大友宗麟の幼少期はとてもやんちゃで手のかかる子供だったそうです。

そのため、大友家の頭首を異母兄弟にあたる「塩市丸」を、後継ぎにしようと画策し始めたのです。

しだいに、宗麟派と塩市派で争いが起き、1550年に、両派が衝突。「二階崩れの変」が勃発したのでした。

結果は家臣の立花道雪の力もあり、宗麟が勝利します。その後も、内戦を抑えながら九州で領土を拡大していきます。

そして筑前国の博多港を支配下に治めた大友宗麟は、海外貿易により、莫大な富を得ることになるのです。

1559年、大友宗麟は、豊後国や肥後国、そして肥前国に加え、室町幕府13代将軍「足利義輝」から、豊前国と筑前国、

筑後国の守護に任じられ、北九州の6ヵ国を治めることになります。

しかし、大友宗麟の心境に変化が芽生え始めます。大友宗麟が44歳の頃、嫡男の「大友義統」に家督を譲ると、

家中の実権は握りつつも、次第に政治から距離を置くようになります。

1578年には、以前より傾倒していたキリスト教に改宗して、「ドン・フランシスコ」の洗礼名を拝受。

キリシタン大名となります。

そのころから、薩摩国の島津氏が勢力を伸ばし、大友氏と対決します。

九州最大級の野戦「耳川の戦い」は、島津軍の大勝利でその幕を閉じたのです。

ここからの大友氏はみるみる衰退の一途たどり、豊臣秀吉に助けを求め家臣になります。

豊臣秀吉は、その後、九州全土を統一。そして大友宗麟に対して、日向国を与えることを提案しますが、

大友宗麟は、「私が日向国に行けば、また戦が起こる」とこの申し出を固辞。

1587年、病床に伏した大友宗麟は、自身の領国などについては一切語らず、神に祈りを捧げ続けて息を引き取りました。

大友宗麟は、戦国大名としてではなく、キリスト教徒としての死を選んだのでした。

 

さて、描きあがりのほうですが、顔は別人ですがまあまあ雰囲気はとらえているかなあと納得しています。

全体のバランスもとれていると思います。次回も、特徴をとらえた表情にしたいと思います。

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