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2021/09/09

服部半蔵の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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勘違いしていました。「服部半蔵」とは?

多くの人は「忍者」と答えるかもしれませんが、それは半分正解で半分不正解なのです。

服部半蔵とは、服部家の当主が代々世襲する名前で、初代は忍者だった服部半蔵ですが、世襲し徳川家に仕えた武士でもありました。

忍者として実在したとされる服部半蔵や伊賀流の同心達にストライキを起こされたとされる服部半蔵など、

有名な服部半蔵は数多くいますが、そんな歴代の服部半蔵の中でも大きな功績を残しているのが、2代目「服部正成」です。

服部正成の一番の功績は、やはり伊賀越えでしょう。

甲州征伐後、徳川家康は連合軍である織田信長を訪ねます。その後、徳川家康は「長谷川秀一」の招きで少数の供を連れて堺を訪問しました。

しかし、徳川家康が堺にいる間に、「明智光秀」が企てた「本能寺の変」によって、織田信長が横死。

知らせを聞いた徳川家康は取り乱し、自刃をする覚悟を固めましたが、「本多忠勝」(ほんだただかつ)ら家臣から説得され、

伊賀を越えて伊勢に出て、そこから船で三河に帰ることを決めました。

しかし、伊賀越えにおけるリスクは、道が分からないだけでなく、山賊や落ち武者狩りもありました。

徳川家康の供には、本多忠勝や「井伊直政」といった猛将もいましたが、数十人に一斉に襲われた場合には、無事でいられる保証はありません。

このときに活躍したのが、服部正成です。

服部正成は、伊賀の地侍や土豪と交渉し、彼らに警護してもらうことで、徳川家康一行は伊勢に抜けることができ、船で三河にたどり着くことが出来たのです。

その後も家康の下、数々の武功を挙げたそうです。

 

さて、描きあがりのほうですが、表情が若干、若いです。もう少し年を重ねた雰囲気が欲しかったです。

次回は、特に目を注意して描きたいと思います。

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