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2021/07/03

池田恒興 の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

https://www.instagram.com/kakushigoto_25.13/?igshid=14m6zpfzds9z2

 

母の養徳院は織田信長の乳母であり、織田信長と池田恒興の関係は乳兄弟にあたり、信長の方が2歳ほど年上です。

恒興は「桶狭間の戦い」や「美濃攻略」などに参戦し、1570年朝倉・浅井との戦いである「姉川の戦い」でも活躍しました。

その武功を受け犬山城主となり1万貫をあたえられています。

その後も「比叡山延暦寺の焼き討ち」や「長島の一向一揆」、「槇島城の戦い」などにも参陣しました。

6月の本能寺の変では信長が明智光秀の謀反に倒れると秀吉の中国大返しに合流し、山崎の戦いで先鋒を務めて明智光秀を破りました。

織田家の後継者を決める清須会議では、柴田勝家らに対抗して秀吉とともに信長の嫡孫・三法師を推し、領地の配分は摂津国内に12万石を拝領します。

1583年の清須会議以降、勢力が柴田勝家側と羽柴秀吉側に二分されていた織田家の家臣による争い「賤ヶ岳の戦い」が勃発します。

秀吉が勝利、恒興は参陣していないものの美濃国内に13万石を拝領しました。

翌1584年には徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いがはじまり、恒興は秀吉方で参戦します。

途中三好信吉・森長可・堀秀政と共に徳川家康の本拠地である三河国を攻めようとしましたが、

この合戦の前半、鞍に銃弾を受けたことが原因で落馬し、

最期は徳川方の永井直勝の槍を受けて長久手にて娘婿の森長可と共に討死しました。

 

さて、描きあがりのほうですが、特徴は抑えていると思います。

一筆一筆にもっと工夫がほしいところです。次回は、安易に筆を入れず丁寧な線を心がけたいと思います。

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