2021/01/03
クビライの肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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1266年(文永3年)、元(旧モンゴル帝国)から友好関係を結ぼうと1通の「国書」(手紙)が届きます。
しかし、日本は歩み寄ってきた元の幾度にも亘る国書を、ことごとく無視しました。
とうとう痺れを切らしたクビライ・ハン。1274年(文永11年)10月、ついに日本出兵を命令します。
元は支配下であった高麗で900隻の軍艦を建造し、2万数千の兵力を投入。
これが「文永の役」と呼ばれ、博多湾に集まった日本の兵はわずか3,000騎ほど。
これにより、博多はあっという間に占領されてしまいました。
しかし、元軍は翌日になると日本から撤退します。目的は「圧倒的な強さを日本に見せつけて国交を結ぶこと」であったためです。
1週間後、その報告を受けた第8代執権の北条時宗は兵の能力はもちろんのこと、防護力を上げることを決断します。
再度 国交を結ぶため送られた元の使節5人が日本を訪れますが博多の件もあり処刑してしまいます。
これにより元は激怒。「もう仲良くする必要はない」となってしまい1281年(弘安4年)5月「弘安の役」が行われます。
高麗から東路軍4万人と900隻、中国の沿岸からは江南軍10万人と3,500隻が日本に向けて出発します。
しかし、進化した戦法や台風(暴風雨)、食糧不足などによって2度目の元軍の来襲は失敗に終わったとされています。
これらの元寇(蒙古襲来)は「神風」の発生で救われたとする説が変わりつつあります。
モンゴルや日本の歴史書にも「暴風雨が起こって元軍が撤退」とは書かれておらず、学校の教科書からもこの部分が消えつつあるようです。
さて、描きあがりのほうですが、なかなか思い通りに描けました。1筆1筆丁寧に筆先を見ながら描くことができました。
間があくとどうしても、上手くいかないのでなるだけ連続して次回作にあたりたいと思います。