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2021/09/01

上杉景勝の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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上杉景勝は上杉景虎と共に、上杉謙信の養子として上杉家に来ていました。そこで、戦術などを謙信から学びます。

しかし、1578年 上杉謙信が倒れ、4日後に亡くなります。突然であり、遺言もなく急逝 、そのため上杉景勝と上杉景虎の争いが始まります。

上杉景勝と上杉景虎の家督争いは、「御館の乱」(おたてのらん)と言われています。

結果は武田氏の力添えもあり、上杉景勝の勝利。1580年には、越後国の豪族も追従したことで、上杉景勝は名実ともに上杉家の正式な当主となったのです。

その後 織田軍からの猛攻を受け、窮地に立たされた上杉景勝でしたが、織田信長が「本能寺の変」の勃発により自害したことから、

織田軍の北征は止まり、上杉氏は九死に一生を得ます。

上杉景勝はこの機を逃さず、反乱に乗じて北信濃に侵攻しました。

さらに、豊臣秀吉とも親交関係を結び 1584年、「小牧・長久手の戦い」においても、上杉景勝は豊臣秀吉方として

家康側である「佐々成政」の家臣「丹羽権平」から「宮崎城」(富山県)を奪い返します。

以降、豊臣秀吉方に付き幾度も出陣。「真田昌幸」も一時的に従属下に置きました。

そして、秀吉の元 数々の武功をあげて豊臣五大老と称されるようになります。

さらに、1598年に、豊臣秀吉から会津 120万石へ加増されたため、その呼称は「会津中納言」となります。

豊臣秀吉が亡くなると、上杉景勝は家老の「直江兼続」が「石田三成」と懇意であったことなどから、「徳川家康」と対立。

関ヶ原の戦い」で石田三成ら率いる西軍が敗れたため、上杉景勝は徳川家康に降伏する他ありませんでした。

当然、出羽庄内を没収され、30万石の米沢へ移封されますが、その後は家康に忠義を尽くします。

1623年、上杉景勝は「米沢城」で亡くなり、米沢藩上杉家は幕末まで続いたのです。

 

さて、描きあがりのほうですが、もう少し鎧を描きこむことが出来たと反省しています。

次回は、全体のバランス見ながら模写したいと思います。

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