2021/05/31
加藤清正の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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加藤清正の名が知れ渡ることになったのは、織田信長の後継者を決める「賤ヶ岳の戦い」です。
この戦いで、豊臣方から柴田方へ寝返った「山路正国」(やまじまさくに)を討ち取りました。
賤ヶ岳の戦いで功績のあった武将のうち、特に大きな働きをした7人が、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになったのです。
その後、1590年 小田原征伐で北条氏を討伐し全国を支配下に置いた豊臣秀吉は、朝鮮出兵の準備に取り掛かりました。
この朝鮮出兵で、加藤清正や福島正則などの武断派と、石田三成や小西行長などの文治派の対立が決定的となります。
加藤清正などの武断派は、戦場の働きこそ武士の本分と考えていましたが、石田三成などの文治派は官僚的な仕事も大切だと考えていました。
もともと、少し考え方が異なっていた両派でしたが、朝鮮出兵における石田三成・小西行長の豊臣秀吉への虚偽によって謹慎処分させられたり、
戦場での働きを悪く報告したりされ、文治派に対する不満が爆発寸前にまでなっていたのです。
その後に前田利家に相談し、その場は収まりますが利家が死去するとさらに激化し、石田三成邸を襲撃しましたが、石田三成が徳川家康邸に逃げ込み失敗。
それ以降、加藤清正などの武断派は、さらに徳川家康に接近していくことになるのです。
さて、描きあがりのほうですが、ちょっと頭が大きすぎました。
次回は、もっと全体的バランスを確認しながら描きたいと思います。