2021/11/21
天草四郎の肖像画を描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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1637年 日本の歴史上最大規模の一揆「島原の乱」が発生しました。
きっかけは百姓の酷使や重い年貢、飢饉でしたが、これらに加えキリシタンの迫害を受け、
領民の不満が高まったことに起因します。
「神の子」として崇められ、わずか16歳で総大将として戦ったのが天草四郎です。
蜂起した一揆軍は有馬氏の居城であった原城に立て籠りました。
乱の報を受けた幕府は、ただちに討伐軍を組織して城を包囲した。
その数は一揆軍3万7千人に対して、幕府軍は12万人。
数の上で一揆軍は圧倒的に不利だったが、四朗を精神的支柱にした一揆軍は結束が固く善戦し、
翌1638年に幕府軍の総大将である板倉重昌を鉄砲で射殺しました。
しかし、幕府軍から兵糧攻めにあい4か月間で食料がつき沈静化されます。
一揆軍は皆殺しとなり幕を下ろしました。
実は、「天草四郎は豊臣秀吉の孫だった!?」という驚愕の噂があります。
そのひとつは四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪だったことや、
またある書物には、四朗には豊臣秀綱という名前があったと記されているとか、
農民とキリシタンが起こした一揆の討伐にしては、徳川軍の態度はあまりに執拗で、
四朗を絶命させておかなければならない理由があったのではないかという主張もある。
もちろん、信憑性が低いものあります。これは、歴史が生んだロマンなんでしょうか。
さて、描きあがりのほうですが、なんか雰囲気が違います。
次回は配色に気を配って描きたいと思います。