2021/09/16
島津義弘の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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とにかく戦に強いイメージがあります。
木原崎の戦い、大友宗麟との耳川の戦い、沖田畷の戦い等いろいろな戦略を立てて敵を撃退していきます。
沖田畷の戦いの勝利によって、島津氏の勢力は北九州まで拡大。
九州には島津氏に対抗できる勢力はなく、九州統一目前という所までいきます。
しかし、豊臣秀吉に目を付けられ戸次川の戦いには勝利したものの、
次の1587年 豊臣秀吉軍は、20万以上の大軍で九州に上陸します。
島津軍が根白坂の砦を攻め落とせず、こう着状態となっているところへ、豊臣秀長本隊が救援にきました。
圧倒的な兵力差の前に島津軍は敗北し、義弘の兄 島津義久は降伏を決断。
秀吉の死後に起きた関ケ原の戦いでは、石田三成の西軍として参戦しました。
結局、小早川秀秋の裏切りをきっかけに、これまで戦局を見守っていた西軍の武将が次々と東軍に寝返ります。これにより形勢は、一気に東軍へと傾きました。
退却を決める島津義弘ですが、「たとえ討たれると言えども、敵に向かって死ぬべし」と言葉を残し、
東軍の前衛部隊である福島隊を突破。続いて「井伊直政」部隊を突破し、徳川家康本隊に迫ったところで方向を変え、伊勢街道を南下しました。
この退却戦は「島津の退き口」として後世に語り継がれることになるのです。
さて、描きあがりのほうですが、服装の左右のバランスやしわ感は大分 慣れてきました。
やはり顔が違う人になってしまいます。苦手ですね、似顔絵師の方は本当にすごいですね。尊敬いたします。
次回は、特徴をとらえた表情にしたいと思います。