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2021/08/16

徳川家康の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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竹千代と名乗っていた徳川家康は、幼少時 織田家や今川家の人質として育ちます。

桶狭間の戦いでは、徳川家康も今川軍として参戦していましたが、織田信長に今川義元が敗れたことを知ると今川氏からの独立を図ります。

最大の負け戦と言えば、甲斐国「武田信玄」と激突した「三方ヶ原の戦い」で、「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるこの合戦は、

約16,000人の徳川家康・織田信雄軍に対して、豊臣秀吉軍は約100,000人と兵力に大きな開きがありましたが、小牧山での奮戦により豊臣秀吉軍に勝利しています。

その後 徳川家康は大坂城で豊臣秀吉に謁見。譜大名の前で忠誠を誓い、1590年の小田原征伐には豊臣秀吉軍として参戦し、大きな戦功を挙げます。

関東で着実に力を付けていった徳川家康は、1598年に豊臣秀吉が没すると、いよいよ天下取りの最後の仕上げに踏み切ります。

1600年、五大老のひとり「上杉景勝」に謀反の疑いがあるとして、徳川家康は討伐軍を結成。

「会津征伐」と言われるこの挙兵は、のちに起きる「関ヶ原の戦い」のきっかけと言われています。

天下分け目の「関ヶ原の戦い」では、松尾山で傍観していた西軍の「小早川秀秋」が東軍へ寝返り、西軍「大谷吉継」隊へ攻め込みました。

これが決定打となり、徳川家康率いる東軍は石田三成 率いる西軍に勝利を収めます。

1603年、朝廷から征夷大将軍に任命され、ここに江戸幕府が誕生します。

1614~1615年に起きた「大坂冬の陣・夏の陣」では、冬と夏の2度行なわれ、激闘の末に豊臣家は滅亡。

これをもって、徳川家康の天下掌握が完了しました。

平均寿命が40歳前後という時代において、徳川家康は75歳までその生涯を全うしました。

 

さて、描きあがりのほうですが、まあまあ雰囲気は出ていると思います。線も羊毛のおかげでもったりとした感じが表現出来ていると思います。

あとは、顔ですね。なかなか似ないです。デッサン力が課題ですね。

次回からも、面白い線を意識した作品にしたいと思います。

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