2021/08/21
本多忠勝の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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戦国武将としての第一歩は、1562年の「鳥屋根攻め」で初の首級を挙げることに始まります。
徳川家康に対する忠義も強く、1563年に起きた「三河一向一揆」では、一向宗(浄土真宗)であっ親族の大半が一揆側に付きました。
しかし、本多忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗し、徳川家康側に付きます。
この三河一向一揆での活躍は、徳川家康に「その勇ましさはずば抜けている」と評価されます。
今川家からの独立を果たした徳川家康は、本多忠勝を19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である「家康旗本衆」に選び、中央で54騎を統率する武将とします。
織田信長と同盟を結んだ徳川家康が当時懸念していたのは、甲斐の虎「武田信玄」の存在で、一度は敗れたものの「長篠の戦い」の前哨戦である
「長篠城攻め」で、榊原康政らと武田軍に勝利、武功を挙げます。
しかし、本能寺の変が起こると、本多忠勝は「服部半蔵」の助けを借り、主従わずか30人程度で家康の「伊賀越え」を実行し、
そこから船で三河に渡らせたとされています。
その後は「豊臣秀吉」と対立。1584年に「小牧・長久手の戦い」で衝突し敗れますが、1586年、本多忠勝は主君・徳川家康と共に豊臣秀吉の配下に入り、
従五位下中務大輔に叙位・任官しました。
関ヶ原の戦いを経て、江戸幕府が開設され桑名藩を任され発展させます。
このころから病気がちになり、1610年 本多忠勝は63歳で死去しました。
さて、描きあがりのほうですが、雰囲気は出ていると思います。
次回は、なるべく間隔を開けずに作品に取り組みたいと思います。