2021/03/11
武田信玄の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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武田信玄は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、
その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。
天下を目指していた武田信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも評されています。
猛々しいイメージを持つ武田信玄ですが、実は結核の持病を持ち、病弱で細身だったとも言われています。
近年の研究では、武田信玄とされる肖像画は、能登(現在の石川県北部)の
戦国大名「畠山義続」なのではないか、という説が有力です。
「 疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし 」をうたった風林火山も有名です。
多くの戦国武将の中でも最強と呼ばれた武田信玄の好敵手として並び称されるのが、越後の大名 上杉謙信 で、
その戦の上手さから「軍神」や「越後の虎」と称されています。
武田信玄と上杉謙信は、互いの領地に挟まれた信濃を巡る「川中島の戦い」での11年間のうちに5度も戦いました。
ただ、武田信玄と上杉謙信は小競り合いをしつつも、実際に激しい衝突をしたことは少なかったと言います。
1571年、上洛した織田信長と室町幕府15代将軍「足利義昭」との対立が深刻化。
武田信玄も打倒織田信長を掲げて上洛を目指し、織田信長の盟友・徳川家康領の遠江と三河に侵攻を開始します。
1572年には、「三方ヶ原の戦い」で、ついに徳川軍を撃破。
翌1573年、東三河の要所「野田城」を落とします。
しかし、野田城陥落後、武田信玄は持病が悪化。たびたび吐血するようになり、武田軍はついに甲斐への撤退を決めます。
甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。
武田信玄という脅威がなくなったことで、誰よりも安堵したのは織田信長です。
同じ年の7月、織田信長は将軍・足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡。
天下を取ることは叶いませんでしたが、家臣や領民を愛し慕われた武田信玄は、今も甲斐の人々に愛され、郷土の星として燦然と輝いているのです。
さて、描きあがりのほうですが、なかなか迫力がある雰囲気は出せたと思います。
今後も、しっかりと対象物を見てから丁寧に線を入れたいと思います。