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2021/10/18

真田幸村の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

https://www.instagram.com/kakushigoto_25.13/?igshid=14m6zpfzds9z2

 

真田昌幸の次男として生まれます。

真田家の行く末は昌幸で記載した通り紆余曲折ありながら、最終的に豊臣家につきます。

秀吉の死後、1600年関ヶ原の戦いが起こると、豊臣秀頼を立てる石田三成率いる西軍につきます。

しかし、結果は家康率いる東軍の勝利。

その後の 大坂冬の陣では、大坂城の南側に真田丸を設置し健闘するも、徳川氏主導で和議が成立。

これにより真田幸村の武名を天下に知らしめますが、大坂城は本丸以外を破却、堀がすべて埋め立てられ、真田丸も破壊されてしまいます。

大坂冬の陣での真田幸村の活躍を見た徳川家康より、真田信之を通じて、「信濃一国」を条件に寝返るよう誘いを

受けていた真田幸村でしたが、これを拒否。

この頃真田幸村は、すでに豊臣方の負けを覚悟し、それでも豊臣方に付くことを詫びる手紙を親族等に書き送っているのです。

夏の陣が始まると、真田幸村率いる真田隊は徳川家康の本陣まで攻め込み、あと一歩のところまで徳川家康を追い込みます。

徳川家康が2度も自害を覚悟したと言われるほど、真田隊の勢いは凄まじかったのです。

しかし、徳川家康の首を取ることは叶わず、すでに多くの兵を失った真田幸村は、徳川方の援軍の前に力尽きます。

大坂夏の陣も東軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。徳川家の時代が始まるのでした。

勝者の徳川方に寝返ることもできたはずですが、義を貫いて敗者の豊臣方に付き、人生の最期を華々しく飾って散りました。

散り際の桜のような美しさ、潔さが、武士魂の象徴として今なお人気の高い武将です。

 

さて、描きあがりのほうですが、輪郭を均等に強調してしまいました。味わいが消えてしまった感じがします。

次回は必要最低限の強調を心がけたいと思います。

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