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2021/07/07

福島正則 の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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「福島正則」と言えば、豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な「武断派」の武将。

豊臣秀吉、加藤清正とは、血縁で結ばれる信頼できるかけがえのない存在となり、

福島正則と加藤清正の2人は豊臣秀吉の身の回りの雑用を行なう「小姓」となり、無二の親友となるのです。

1582年6月2日、「本能寺の変」で「織田信長」が死去すると、6月13日、豊臣秀吉と共に「明智光秀」(あけちみつひで)を滅ぼす「山崎の戦い」に参戦。

1583年「賤ヶ岳の戦い」では、「賤ヶ岳七本槍」(福島正則・加藤清正・脇坂安治・平野長泰・加藤嘉明・片桐且元[かたぎりかつもと]・糟屋武則[かすやたけのり])のひとりに抜擢され、

一番槍として、敵将「拝郷家嘉」(はいごういえよし)を討ち取ります。

朝鮮出兵における意見の対立によって、「文治派」の「石田三成」と「武断派」の福島正則や加藤清正、「黒田長政」(くろだながまさ)は険悪な関係に。

武断派メンバーは石田三成を暗殺しようとしますが、「徳川家康」に諭されて中止するという出来事が起こりました。

このときから、福島正則は徳川家康に心を開いていきます。

1600年、徳川家康が石田三成に対して「関ヶ原の戦い」を起こします。このキーマンこそが福島正則でした。

豊臣家側の武将達を引き連れて、徳川家康に味方します。結果、徳川家康側の大勝。

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍を賜り、江戸幕府を開きます。これに驚いたのは、福島正則です。

天下は豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に取らせたかったのに、徳川家康の天下取りの企みを見抜くことができず、

関ヶ原の戦いが豊臣家における武将の筆頭は徳川家康になってしまったことが、ようやく分かりました。

豊臣の人間でありながら、徳川に仕え、騙(だま)された男。「武勇に長けるが智謀に弱い」、「猪突猛進武将」などと悪く言われることもありますが、

実は単に、豊臣秀吉に憧れ徳川家康に惚れてしまった、真っ直ぐで純粋な武将だったのです。

 

さて、描きあがりのほうですが、特徴は抑えていると思います。

一筆一筆にもっと工夫がほしいところです。次回も、安易に筆を入れず丁寧な線を心がけたいと思います。

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