2021/02/06
細川勝元の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
https://www.instagram.com/kakushigoto_25.13/?igshid=14m6zpfzds9z2
応仁の乱といえば、細川勝元と山名宗全が起こす大乱ですが、当初から仲が悪かったのだろうと思いきや、当初はそうでもありません。
宗全と勝元には親子ほどの年の差がありましたし、勝元は宗全の養女を正室に迎えています。
しかし、度重なる政治的な対立によって、応仁の乱が引き起こされていきます。
原因は 赤松家・畠山家・斯波家のお家騒動 と・カネ・養子のあらゆる面で対立していたことがきっかけとされています。
勝元方は東軍、宗全方は西軍と呼ばれるようになります。
勝元は義政から宗全追討令を受けたり、後花園上皇・後土御門天皇を救出したり、(一応)大義名分を持っていました。
戦況も東軍が有利でした。が、そもそも戦場が京都市中ということもあり、決定的な勝利を収めることが難しいまま時が流れていきます。
やがて京都では政争が主体となり、市中での戦闘は行われなくなりました。
結果、それぞれの派閥を支持する地方の武将たちがあちこちで戦を始め、戦国時代に突入していくわけです。
勃発から5年経った文明四年(1472年)に勝元は宗全に和平を持ちかけましたが、見事に失敗。翌年に宗全は亡くなり、その2ヶ月後に勝元自身もこの世を去りました。
二人とも伝染病だったとか、暗殺されたとかいろいろな説があって、死因は確定していません。
結局、応仁の乱とは何だったのでしょうか?疑問が残ります。
さて、描きあがりのほうですが、なかなかいい雰囲気が出ていると思います。
若干、顔が大きめでコミカルな感じも良いと思います。
今後も一線一線に表情を乗せていきたいと思います。