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2021/02/06

細川勝元の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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応仁の乱といえば、細川勝元と山名宗全が起こす大乱ですが、当初から仲が悪かったのだろうと思いきや、当初はそうでもありません。

宗全と勝元には親子ほどの年の差がありましたし、勝元は宗全の養女を正室に迎えています。

しかし、度重なる政治的な対立によって、応仁の乱が引き起こされていきます。

原因は 赤松家・畠山家・斯波家のお家騒動 と・カネ・養子のあらゆる面で対立していたことがきっかけとされています。

勝元方は東軍、宗全方は西軍と呼ばれるようになります。

勝元は義政から宗全追討令を受けたり、後花園上皇・後土御門天皇を救出したり、(一応)大義名分を持っていました。

戦況も東軍が有利でした。が、そもそも戦場が京都市中ということもあり、決定的な勝利を収めることが難しいまま時が流れていきます。

やがて京都では政争が主体となり、市中での戦闘は行われなくなりました。

結果、それぞれの派閥を支持する地方の武将たちがあちこちで戦を始め、戦国時代に突入していくわけです。

勃発から5年経った文明四年(1472年)に勝元は宗全に和平を持ちかけましたが、見事に失敗。翌年に宗全は亡くなり、その2ヶ月後に勝元自身もこの世を去りました。

二人とも伝染病だったとか、暗殺されたとかいろいろな説があって、死因は確定していません。

結局、応仁の乱とは何だったのでしょうか?疑問が残ります。

 

さて、描きあがりのほうですが、なかなかいい雰囲気が出ていると思います。

若干、顔が大きめでコミカルな感じも良いと思います。

今後も一線一線に表情を乗せていきたいと思います。

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