2021/06/16
小西行長 の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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小西行長が、武断派のなかでも特に馬が合わず対立していたのが、加藤清正です。
1588年に豊臣秀吉が恩賞として与えたのは、肥後国南半国が小西行長で、肥後国北半国が加藤清正。
同年に天草で起こった「天草国人一揆」(あまくさこくじんいっき)において、小西行長がこれを鎮めるため出兵した折、
小西行長は、同じキリシタンの多い天草衆を降伏させ、家臣団に加えようと考えていたのですが、
加藤清正が強引に天草攻略に割り込んできたため、両人で一揆を制圧せざるを得なくなったのです。
この背景にあったのは、海上勢力・海上能力の掌握を課題とする豊臣政権にとって、天草は非常に重要な場所でした。
これ以上、小西行長の水軍が強くならないよう、加藤清正によって阻止されたとも考えられるのです。
1600年の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、小西行長は徳川家康と敵対する「西軍」の首謀者として出陣したのです。
小西行長が西軍側、しかもその中心人物として戦うことを決めた理由は、朝鮮出兵をきっかけに強く結びついた石田三成や、
以前仕えた「宇喜多氏」(うきたし)への義理、また加藤清正との対立などがあったと考えられています。
戦況は一進一退で進むものの、西軍の石田三成、小西行長、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、大谷吉継の軍勢の他は、
形勢を傍観して鳴りを潜めていました。そこに、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りが起こります。
大谷吉継軍に致命的な打撃が与えられると、小西行長、宇喜多秀家、最後に石田三成の部隊が相次いで崩れ去り、
西軍は敗退。小西行長は石田三成と共に、京都の六条河原で斬首されたのです。
さて、描きあがりのほうですが、結構気に入っております。もう少し、濃い目でも良かったかもしれないです。
次回も、丁寧に一筆を入れていきたいです。