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2021/08/05

藤堂高虎の肖像画 描いてみました。

インスタグラム : kakushigoto

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「藤堂高虎」は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した戦国武将。

「加藤清正」や「黒田官兵衛」と並ぶ築城の名人である。

藤堂高虎が最初に腰を落ち着けて仕えた相手は、「豊臣秀吉」の異父弟「豊臣秀長」です。

豊臣秀長に仕え始めた頃の藤堂高虎はわずか300石と、現代で言う平社員並みの待遇でした。

しかし、豊臣秀長は藤堂高虎の働きぶりを良く見ており、1581年3,000石となります。

さらに藤堂高虎は、紀州や四国攻めの際に戦功を挙げ、ついには1万石の城持大名に出世。

さらに九州攻めで活躍し、2万石にまで加増されます。

豊臣秀長との出会いがなければ、その後の藤堂高虎の活躍はありませんでした。

豊臣秀長の死後、後継者の「豊臣秀保」の後見時代も含め、20年以上もの間仕え続けます。

その後は豊臣秀吉に就き、伊予国板島7万石の大名になります。

秀吉のもとでも武功を挙げて出世しますが、豊臣秀吉の死後または生前に、「徳川家康」に接近しました。

藤堂高虎は、豊臣秀吉の聚楽第に徳川家康の屋敷を造る責任者に任命されましたが、設計図に警備上の重大な不備を発見。

考えた末に藤堂高虎は、独断で変更を加え、費用は自分持ちで工事を行なったと言うのです。

そんな藤堂高虎の心遣いを徳川家康はとても喜び、感心したと言います。

こうして強く印象付け、徳川家康に仕えたあとも、細やかな気遣いを随所で見せて、徳川家康の信頼を勝ち得ることに成功したのです。

藤堂高虎に徳川家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と言い遺し、徳川家康を奉る日光東照宮には、徳川家康、藤堂高虎、天海僧正の3人の像が奉られています。

そして、徳川家康がこの世を去ってから約15年後、1630年に75歳で藤堂高虎はその濃い生涯を閉じました。

藤堂高虎の手がけた城はとにかく「シンプル」。

単純な縄張りと藤堂高虎の編み出した「層塔型」(そうとうがた)と呼ばれる天守で、広い居住空間を確保し、規格化して工期を短縮することに成功したのです。

藤堂高虎の築城した今治城は「層塔型天守」を持つ最初の城で、のちの天守の基準となり、江戸城も層塔型で造られました。

 

さて、描きあがりのほうですが、なかなか個性的で結構気に入っています。羊毛は面白いですね。

次回からも、面白い線を意識した作品にしたいと思います。

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