2021/06/25
豊臣秀吉 の肖像画 描いてみました。
インスタグラム : kakushigoto
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「豊臣秀吉」は、「織田信長」や「徳川家康」と並び戦国三英傑の1人に数えられている戦国武将です。
豊臣秀吉は農民の出身でしたが、「墨俣一夜城」や「金ヶ崎の退き口」など様々な行いから織田信長に認めらて行きます。
さらに、数々の武功を挙げた上に本能寺で織田信長を暗殺した「明智光秀」を討ち取ります。
清洲会議のあと、柴田勝家の養子「柴田勝豊」が拠点にしている長浜城を包囲し、獲得に成功。
翌年の1583年、豊臣秀吉は近江国賤ヶ岳で、柴田勝家率いる30,000の軍勢と衝突します。
「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの合戦は「賤ヶ岳の七本槍」と謳われる勇将が多く活躍し、豊臣秀吉が天下人となるための足がかりとなった戦いです。
戦いは始め互角でしたが、柴田勝家側にいた「前田利家」が突然戦線離脱をしたことで、柴田勝家軍全体の士気が低下。
敗戦を悟った柴田勝家軍の諸将が立て続けに退却していき、豊臣秀吉軍は手薄となった柴田勝家軍本隊へと殺到します。
耐え切れなくなった柴田勝家は、越前国「北ノ庄城」へと撤退しますが、前田利家が先鋒を務める豊臣秀吉軍に包囲されて、
妻「お市の方」と共に自害。数日後には、豊臣秀吉は、本拠地として「大坂本願寺」の跡地に「大坂城」を築城します。
政策では刀狩令を布告する1年ほど前に、豊臣秀吉は日本各地で起こっている村同士の紛争を解決しようと「喧嘩停止令」を布告しています。
その頃の日本では多くの農民や商人が刀剣や槍などを所持していたため、争いごとが絶えませんでした。
そこで「喧嘩停止令」と「刀狩令」を布告することで、各地の紛争をなくそうとしたのです。
1598年8月18日、豊臣秀吉はこの世を去りました。享年62歳。死因については諸説ありますが、病気が原因と言われています。
さて、描きあがりのほうですが、やはり顔が似ないですね。もっとしっかり元絵を見て描きたいと思います。
次回も、丁寧に一筆を入れていきたいです。